概要
超教育協会は2026年3月4日、国際教養大学中嶋記念図書館 館長の豊田 哲也氏を招いて、「能動的学修空間のリデザイン – 国際教養大学中嶋記念図書館からの問題提起」と題したオンラインシンポジウムを開催した。
シンポジウムの前半では、豊田氏が国際教養大学中嶋記念図書館の概要や能動的学修空間を踏まえた大学図書館の未来について講演し、後半は超教育協会理事長の石戸 奈々子をファシリテーターに、視聴者からの質問を織り交ぜながら質疑応答が実施された。その前半の模様を紹介する。
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「能動的学修空間のリデザイン – 国際教養大学中嶋記念図書館からの問題提起」
■日時:2026年3月4日(水) 12時~12時55分
■講演:豊田 哲也氏
国際教養大学中嶋記念図書館 館長
■ファシリテーター:石戸 奈々子
超教育協会理事長
豊田氏は、約30分間の講演において、自身が館長を務める国際教養大学中嶋記念図書館の概要や、能動的学修空間を提供するという大学図書館のあり方、未来の大学図書館のあり方などについて話した。主な講演内容は以下のとおり。
知識の淵源としての図書館から能動的学修空間への役割の変遷
国際教養大学中嶋記念図書館は2025年11月、超教育協会が主催した第1回Innovative Learning Awardsで準グランプリを受賞しました。学習空間デザイン部門での受賞で、そのときの評価が「大学における学びの中核として、学生が自らの思考を深め、専門性を培うための理想的な環境の構築が評価されました」というものでした。こうした、まさに中嶋記念図書館の本質を踏まえ、能動的学修空間のリデザインというテーマでお話しをします。
まず、図書館とは何だったのかについて説明します。図書館の歴史は古く、古代ギリシアや中世ヨーロッパから存在していました。
古代の図書館では、紀元前3~2世紀頃にアレキサンドリアに置かれたアレキサンドリア図書館が有名です。数万巻から数十万巻のパピルスが並べられていたとされています。さらに、紀元前7世紀にはアッシリア帝国の首都ニネヴェにアッシュルバニパルの図書館がありました。そこでも数万枚の粘土板文書が所蔵されていました。このように図書館は古代から存在していたのです。
ただ、古代の図書館は現在の我々がイメージするような図書館とは異なり、特別に許可を得た者しか入れない研究機関としての図書館でした。我々がイメージする図書館は、19世紀のイギリスで誕生しました。1850年に公共図書館法に基づいてマンチェスター市立図書館が設置されたのをきっかけに、順次、公共図書館が作られ、やがてフランスなど他のヨーロッパ諸国、アメリカへと広がっていきました。日本でも19世紀末には誕生しています。
古代の図書館と近代や現代の図書館とでは性質に違いがありますが、いずれにせよ図書館には本が並べられ、研究者や一般の人たちに知識を提供する、いわば「知識の淵源」として役割を果たしてきたのが図書館です。
こうした図書館に求められてきた役割、図書館のイメージが現在、変化してきています。図書館を利用する多くの人は、「図書館であまり本を読んでいない」印象です。自分が持ち込んだ参考書を開いたり問題集で勉強していたりと、図書館の本を閲覧していない人も結構います。これは20世紀後半以降の現象かと思っていたのですが、1921年の東京朝日新聞の投書には「此頃は高等学校の入学試験、大学の試験等で上野の図書館は朝6時頃迄に行かなければ到底入館出来ない」とあります。戦前から、こういった状況だったのです。つまり、図書館を自習室や仕事部屋として使う人がたくさんいるのです。
私自身は、学生の頃に図書館のそういった使い方をしていなかったのですが、19年ほど前から24時間運営の国際教養大学中嶋記念図書館のあり方を見てきた中で、図書館についての考え方が変わりました。本来、図書館は知識の淵源であり、多くの人もそう認識していると思っていますが、自習室としての役割も軽んじることはできません。そう考えるようになりました。
こうした経緯で「能動的学修空間」についても深く考えるようになりました。
能動的ということは、各自が先生の話を一方的に聞いて学ぶ「受け身」ではなく、自ら図書館の本を使って、図書館という空間の中で学ぶという意味合いです。「能動的学修空間としての図書館」という考え方があっても良いと考えました。
ただし、なぜわざわざ図書館で勉強するのか、図書を使わずに勉強するのか、自分の家で勉強すれば良いのにと思うでしょう。図書を使わずに図書館で勉強することに「どのような意味合いがあるのか」、これはなかなか難しいです。ひと昔前であれば図書館に行けば参考図書があり、自分で勉強して分からないことを調べて学ぶことができました。
ところが、インターネットの時代になり、分からないことはスマートフォンなどを使ってネット検索したり、AIに質問したりすれば図書館で一生懸命本を探すよりはるかに簡単に答えを得られます。図書館には参考図書を利用できる環境があるから、能動的学修空間として利用するということはなくなったのです。今日では意味をなさないわけです。
それでは、どうして図書館で勉強するのか。国際教養大学の図書館で学生たちが学んでいるのを見ると、図書館の中で多くの人が学んでいる雰囲気を楽しんでいる、言い換えれば皆が勉強する空間だから私も勉強しやすいという感覚を持っているようです。他の学修者との緩やかな一体感、コミュニティ・オブ・ラーニングを感じているのかと思います。すなわち、図書館は図書があるから役に立つということではなく、利用者や学生たちが能動的学修を展開する中で、ある種の舞台装置として役に立っている、だから図書館で勉強するのではないかと考えています。
学修スペースが広く電子化の未来を先取りした大学図書館
次に国際教養大学中嶋記念図書館について説明します。初代学長の中嶋 嶺雄を記念して中嶋記念図書館といいます。
中嶋記念図書館の特徴の一つめは、並べられている本が少ないことです。せいぜい8万冊程度で、その分、空間が広いです。空気がたくさんある図書館で、所蔵スペースは少ないのが特徴です。建物の構造は、半円形を活かした遊環構造です。意味なくぶらぶらできることに価値があり、建築家の先生の言葉を借りれば「知が生まれる場は歩き回る、探し回るのが楽しい場」です。「知の創造回廊」という構造です。
非常に高い評価を得ている建造物ですが、建設コストは比較的安価で約9億円と推察しています。初代学長の中嶋 嶺雄が2012年に上梓した本の中で「9億円ならば良いと県から承認を得たので、当初の鉄筋コンクリート造りから木造の図書館に方向転換するきっかけになった。だから木造の図書館ができた」と記していることを根拠としました。
建物の中には個人学修用とグループ学修用の個室があり、さらには学修スペース(ラーニングコモンズ)も隣接しています。
こうした特徴を持つ国際教養大学中嶋記念図書館ですが、ある意味で建設費を抑えて作った図書館です。そこで、図書館のコストパフォーマンスを考えてみます。
図書館のコストパフォーマンスを考えたとき、国際教養大学中嶋記念図書館はスペースの割には本棚が少ない、つまり図書収納能力が低いのです。
▲ スライド5・図書館の
コストパフィーマンスをどう考えるか
つまり、国際教養大学中嶋記念図書館は、確かに建設費を安く抑えたかもしれないけれど、8万冊程度しか本を並べられない「コスパの悪い図書館」ではないかと考えられます。建物として国内外から高い評価を受けているにもかかわらず、同じような構造の図書館がそれほど多くは作られていない、それほど追随されていない理由は国際教養大学中嶋記念図書館のようなタイプの図書館が伝統的な図書館の作り方の発想からすると、空間の無駄遣いだと考えられるからです。つまり、本があまり並べられないのに、何億円もかけて建物を作るのはいかがなものかという考え方があるのかと思います。
しかし、一方ではスペースの割に本棚が少ない図書館は、電子化される未来を先取りしたとも考えられます。国際教養大学中嶋記念図書館に実際に並んでいるのは8万冊ですが、電子アクセスができる本が40万冊近くあります。本の多くを電子化して電子アクセスを促進することによって、物理的な本を減らしていく、そういった図書館の未来のあり方を実は先取りしていたのかもしれないということです。
未来の大学図書館は知的インスピレーションを与える場に
それでは、今後、図書館の未来はどうなっていくのでしょうか。大学図書館の未来について考えてみることは、「図書館とは結局、何だったのか」、「これからどうなっていくのか」、「図書館の本質は何か」について考えることにもつながります。
図書館の本質が知識の淵源である時代は、終わったとは言いませんが、そうした役割は相対的に弱くなっていると思います。能動的学修室というと、家で勉強すればよいと思うかもしれませんが、周りに本が並んでいる、その周りには頑張って勉強している人がいる、そういうインスピレーションの場としての図書館の性格が相対的に強くなっています。そうしたことから、これからの時代の図書館は、「図書の収納」を最優先にする必要はないと考えます。これからは、むしろ図書を効率的に並べない、あるいは図書を博物館の展示物のように並べて、できるだけ訪問者にインスピレーションを与え、知的なインパクトを与えることを目的としているような、博物館に近いような図書館になっていくかと思います。
そういう空間においては、書棚の意味も変わってきます。文字の塊を並べておくだけであれば、ネット上のデータベースの方がはるかに使いやすいです。検索すればすぐ目的の本や資料を探せます。ただ、日本語の文献は英語圏の文献に比べて電子化が遅れているので、それで知識の淵源としての図書というのもまだまだ意味があるかもしれません。しかし、それは今後、必ず小さくなっていくと思います。そういう物理的な書棚の意味が、本を並べておくデータベースとしての役割から、インスピレーションの場、あるいは博物館や美術館の展示物のような役割に変化していく、そういう時代なのかもしれないと考えています。ただし、この考えについては、広くご意見等をいただきたいと思っています。
最後に「本は必要か」という究極的なことについて考えてみます。実は、「本は要らないかもしれない」と最近、思い始めています。正しくは「本はある意味で要らない」けれど、「ある意味で必要」です。
資料のための図書はネット上のデータベースに置き換えられていきます。しかし読書のための図書、あるいは本を手に取って得られる知的刺激を生み出すための図書、そういう物理的な「仕掛け」としての図書の意味はなくならないし、重要であり続けると思います。そうすると図書館の役割は、本を並べておく、データをストックしておくデータストレージとしてのアレキサンドリアの図書館のようなものから、より知的刺激を提供する博物館的なものに変わっていくでしょう。そうなると手に取ることができる展示物としての図書、そうしたあり方に、図書館における蔵書の意味が変わっていくのではないかと考えます。
そうすると、「能動的学修室としての機能 VS書庫としての機能」という構図になります。私などの世代では、「単なる自習室として図書館を使うことはけしからん」と思うかもしれませんが、実はそこにこそ図書館の本質があるのかもしれません。書庫としての機能だけを語るのであれば、早く電子化してできるだけ多くの図書をネット上で読めるようにすることが最善であるのではないでしょうか。
こうしたことは大学の未来とも関わってきます。今、我々が大学、ユニバーシティと呼んでいるものの起源は、11世紀に創設されたイタリアのボローニャ大学やイギリスのオックスフォード大学に遡ります。そこから15世紀半ばまでにヨーロッパに50~60大学が誕生しました。
グーテンベルクが活版印刷を発明したのが15世紀半ばですから、それ以前の時代の本は非常に貴重で、大学の学生たちは教科書を持たずに大学に来ていたそうです。今でも大学の講師をレクチャラーと呼ぶことがありますが、これは昔の大学の先生が学生には買えないような貴重な本を読み上げるのが仕事だったからです。アメリカではレクチャラー、イギリスでは専任講師をリーダーと言っているのも、「読む人」という意味合いです。日本語の「講師」の「講」も、教科書を読むという意味です。もともとは教科書を持たずに授業に来ている学生たちに、教科書を読み上げてあげるのが大学の教育だったのです。
つまり、大学というのは当初、先生の話を聞いて覚えるだけの受動的な場でした。その後、活版印刷が発明されて本の値段が下がり、人々が自分で本が読めるようになると、大学のあり方が変わっていきました。ところが日本の大学は20世紀になっても、いや21世紀初めくらいまで、中世ヨーロッパの初期の大学のような授業を続けていました。教授や講師はひたすら講義内容を読み上げて、学生は一生懸命にノートを取るという学びです。
それが最近、日本の大学でもようやく能動的学修が注目されるようになりました。国際教養大学では当初から能動的な学修を大原則として、学生たちの自発的な学修を促しています。その視点に立つと、大学図書館における能動的な学びの場としての機能強化は、大学そのものの機能強化の真ん中にあると考えられます。図書館が大学の真ん中にあるのは、知識のソースとして真ん中にあるからではなくて、学生の能動的な自発的な学修の場としての機能が図書館に集約されているからです。
私は最初に、図書館は単なる自習室ではないと申し上げましたが、「能動的な」自習室としての機能にこそ大学図書館の本質があり、そこに大学教育の本質があり、大学の未来があると考えています。
>> 後半へ続く







