知識の伝達ではなく、知識を持ち寄って教師と学習者が変容することが重要
第198回オンラインシンポレポート・後半

活動報告|レポート

2026.1.23 Fri
知識の伝達ではなく、知識を持ち寄って教師と学習者が変容することが重要</br>第198回オンラインシンポレポート・後半

概要

超教育協会は2025年11月25日、立教大学 異文化コミュニケーション学部 教授の奥野 克巳氏を招いて、「AI時代に人類学から教育を考える~ティム・インゴルドのコモニング」と題したオンラインシンポジウムを開催した。

 

シンポジウムの前半では、奥野氏が社会人類学者ティム・インゴルドの教育論について講演し、後半では超教育協会理事長の石戸 奈々子をファシリテーターに、視聴者からの質問を織り交ぜながら質疑応答が実施された。その後半の模様を紹介する。

 

>> 前半のレポートはこちら

 

「AI時代に人類学から教育を考える~ティム・インゴルドのコモニング」

■日時:2025年11月25日(火) 12時~12時55分

■講演:奥野 克巳氏
立教大学 異文化コミュニケーション学部 教授

■ファシリテーター:石戸 奈々子
超教育協会理事長

 

▲ 写真・ファシリテーターを務めた
超教育協会理事長の石戸 奈々子

 

シンポジウムの後半では、超教育協会の石戸 奈々子をファシリテーターに、視聴者からの質問を織り交ぜながら質疑応答が実施された。

 

教育制度の改革より学びの本質を見極めることが大事

石戸:「奥野先生やインゴルド氏にとって、学びとはどのような営みなのでしょうか。

 

いま学びの定義そのものが大きく揺れ動いているからこそ、学びのあり方も変わっていく必要があると感じています。奥野先生にとって学ぶとは何か。人はなぜ学ぶのか。そして、学びは人にどのような変容をもたらすのか。これらについて、ぜひお考えをお聞かせいただければ幸いです」

 

奥野氏:「冒頭にも申し上げた通り、私は長年、狩猟採集民族のフィールドワークを続けてきました。プナンは約500人規模で暮らしています。彼らにとって生きていく上で最も重要なのは、採集や森での狩りに関わる知識と技能です。これらは誰かから教わるものではありません。親や年長者と四六時中行動を共にすることで、自然に身につけていきます。それが彼らにとっての『学び』です。

 

1980年代から学校教育が導入されていますが、彼らはいまだにほとんど学校に行きません。学校が面白くないのだと思います。なぜなら、そこで学ぶ算数や英語は森での生活には役に立たないからです。彼らに必要なのは狩猟の知識や技能であり、『生きるために必要なことを学ぶことこそ真の学び』である、というのが私の考えです。

 

とはいえ、狩猟民・牧畜民・農耕民の社会は、私たちが生きる現代社会とは経済の仕組みそのものが異なります。現代社会においては、生きるために必要なことを学ぶために学校教育が必要です。狩猟民社会とはまったく別の要請に応える学びが存在するのだと思います」

 

石戸:「学校における学びの目的は、どのように設定されるべきでしょうか。多くの学校もまた、奥野先生が示される方向性へと変わっていく必要性を感じているのではないかと思います。その転換に向けて、学校は何を手放し、そして何を新たに獲得していくべきなのか。ぜひお考えをお聞かせください」

 

奥野氏:「学校教育に求められているのは、責任ある大人が無知な子どもに対して知識、技能、さらにはさまざまな経験の仕組みなどを教えるということではないのだと思います。

 

生成AIが急速に普及し、知識の伝達はAIが担ってくれるようになりました。そこで大切なのは、教育の本質を問い直し、再設計することです。その際、知識や経験を持ち寄り、旅の仲間のように相互に応答しながら考えていく『コモニング』の考えが、根本に置かれるべきだと思います」

 

石戸:「視聴者から、『コモニングを一般化するために、一番、改善すべき日本の教育の慣習は何だと考えますか』という質問が寄せられています。奥野先生は先ほど、学校が教育を独占してはならないとお話しされていました。学校という枠に閉じるのではなく、家庭や地域とのつながりも含めて考えたとき、日本の教育制度や社会にはどのような課題があるとお考えでしょうか。あわせて、コモニングを広げていくための最初の一歩となり得る取り組みがあれば、ぜひお聞かせください」

 

奥野氏:「制度改革だけでは、教育そのものの劣化に対処できないと思います。制度を変えようとしても、資本主義の土台や既存の行政制度の枠内で行う限り、本質的な部分は変わりません。それが、人類学が突きつける問いです。

 

プナンの事例のように、私たちとは全く異なる学びの形に目を向けることで、『学びには多様な形がある』ことが分かります。

 

私がかつて狩猟民のフィールドに初めて入っていったとき、子どもたちが狩猟についていかないということが気になりました。これでは将来、狩猟民はいなくなる、持続的に狩猟で暮らし続けることができなくなるのではないかとは思い、大人たちに『子どもたちは、なぜ狩猟に行かないのか』と質問しました。彼らはその質問に対して全然、答えてくれず、はぐらかされました。それから20年経って、かつての子どもたちは狩猟の重要な担い手となっています。

 

このことが示すのは、学びとは『これが学びです』という具体的なものがあるわけではないということです。彼らにとっては四六時中一緒にいて薪割りをしたり、猪を担いだりしながら、そのうちに身につくものが技能や知識であって、それを得ることが学びということです。こういう形で学びますという制度や学校のような箱物などではない。現代の教育は、それらがあることが大きく教育の改革を邪魔していることに気づくべきだと思います。

 

インゴルドが言うように、ピタゴラスの定理を教えるというのは理性主義の伝統であり、イデアが一人歩きする状態です。

 

教育制度とはまさにそういうものとして進められるものなので、インゴルドは、行政や教育制度そのものを変えていけば何かできるというのは幻想だと言っています。私も存点に関しては人類学の観点から同意します。私たちがやっていることを当たり前として見ないで徹底的に相対化することによって問い直すことこそ、教育や社会を考え直すことにつながるのではないでしょうか。そんなことが言えそうです。我々のやり方はどういうことなのか、人間とは何かという問いから考えていくことがとても大事だということです」

 

石戸:「視聴者から、『ICTなどの技術に関して、それを活用して共に参加する新しいコモニングとしての学びを実現することは可能だと思うか』という質問が寄せれています。生成AIは、従来のICTとは異なり、応答する存在として対話を通じて世界を広げ、知を深める可能性を持っています。こうした新しい技術を、コモニングという概念の中にどのように位置づけることができるのでしょうか。また、そのような学びが広がるとき、教師にはどのような役割が求められるのか。この2点について、お考えをお聞かせください」

 

奥野氏:「ICTやAIを教育にどう取り入れるかは、非常に大きな問題です。私自身まだ明確な結論は持っていませんが、AIを活用してより正確な文章を作るなど、一定の役割は重要になってくると思います。ただ、AIとの付き合い方が現在の教育制度の枠では十分に議論されていないとも感じています。

 

2点目についてですが、私はAIと人間性に関わる教育は別物だと思っています。例えばセミナーやゼミは、まさにコモニングが発動できる場です。教師が学習者と共に考えることで、教師自身も変容します。学習者だけが変容するのではなく、教師も大きく変わり得るような可能性の中で共に学んでいくことが、AIとの間でできるかというと、なかなか難しいです。まずは人間の中でやっていく、その中にAIも含み込んでいくという形が現実的だと思います」

 

石戸:「奥野先生やインゴルド氏は、不確実性の高い時代においては、目的論的な思考そのものがもはや有効ではないと指摘されています。あらかじめ定められた目的に向かって進む『輸送』ではなく、状況に応じて道を見出していく『ぶらぶら歩き』のようなあり方こそが、今の時代にふさわしいとも語られています。また、知識が人に安心をもたらすものであるのに対し、知恵はむしろ人を揺らがせるものである。しかし、そこにこそ学びの本質があるという考え方もあります。では、そのような『揺らぎを生む学び』とは、どのような形として表現できるのでしょうか。そして、それは子どもたちにどのような影響をもたらすとお考えでしょうか」

 

奥野氏:「今挙げられた知識と知恵、輸送とぶらぶら歩きは、『メジャー』と『マイナー』に繋がっています。メジャーは長調の教育といって、目的論的に問題を設定し、どう解決すれば良いのかを教師が責任を持って教えて、理解させていく教育です。一方、短調の教育は『ぐらつかせる』ものです。

 

長調の教育で知識を蓄えることは、自分自身をエンパワーすることに繋がっていきますが、そうすると知識の牙城の中に閉じ籠ってしまうことになります。知識を持っている自分というのは凄いと思ってしまう。しかし、本当はそうではありません。それでは足りないです。別の視点をそこに与えてやることによって、より豊かな形でその現象そのものを考えていくことが可能になります。逆に言うと、そういった視点こそが教育の中で培われるべきだと思います。

 

従って、確信的あるいは断定的な形での答えが決まっていないものを学ぶことで学習者が変わっていくような進め方、それがどうすればできるのかという問いを立てていただいて、今日の学校教育の中でそれができるのかを考えていくこと、それが大事ではないかと思います。インゴルドの著作がなぜ教育という問題に突き進んでいったのかを考えると、人が成長すること、人が知識や技術を得ることに関してどうあるべきかについて、インゴルドが考えてきたからだと思います」

 

石戸:「視聴者から、『不登校の子どもたちが急増していることに関するお考えや、生きづらさを感じている子どもたちに対する対応について聞きたい』という質問が寄せられています。子どもたちのメンタルヘルスやウェルビーイングの低下は大きな課題です。この点について、最後にアドバイスをお願いします」

 

奥野氏:「プナンの事例になりますが、彼らは学校に行かなくなります。最初は行くのですが、狩猟採集民は焼き畑民から少し差別され、いじめに遭うためです。いじめを受けると学校に行かなくなります。親も、学校に行かないことに関して何も言いません。私たちの社会では、学校というのは行かなければいけないことになっています。しかし、そうではない社会もあるということです。

 

不登校が許されない社会がある一方、プナンは許されています。行かなくてもどうってことはないと考えています。それでは済まない社会を我々が作り上げてきたのであって、そこに歪みが出ているということです。それをどうすべきかは、学校の制度の中で解決しなければいけない。つまり科目をきちっと学んで立派な大人になることを前提とした中で解決していくしかないので、私たちの社会そのものに関わってくる巨大な問題だと思います。

 

すると、不登校の問題を解決する枠組みというのは、コモニングあたりで考えていくのが大事になってくるのではないかと思います。つまり何か答えがあるわけではないので、それぞれの知識を持ち寄りながら、老いも若きもあらゆる人が考えることで解決の方法を見つけていく。我々は閉じてしまいがちなので、開いていってさまざまな人たちが集いながら考えていくことによって、自分が変容していくとともに、考え続けていくことが大事だと思います」

 

最後は石戸の「これまで学校は、外側から目的を与えることで、結果として学びの自由度を狭めてきた側面があったのではないかと思います。子どもたち自身が関心や問いを見いだし、世界とともに歩み始める。そのきっかけとなるような学びの場を、これから育んでいけたらと感じています」という言葉でシンポジウムは幕を閉じた。

おすすめ記事

他カテゴリーを見る