概要
超教育協会は2025年11月25日、立教大学 異文化コミュニケーション学部 教授の奥野 克巳氏を招いて、「AI時代に人類学から教育を考える~ティム・インゴルドのコモニング」と題したオンラインシンポジウムを開催した。
シンポジウムの前半では、奥野氏が社会人類学者ティム・インゴルドの教育論について講演し、後半では超教育協会理事長の石戸 奈々子をファシリテーターに、視聴者からの質問を織り交ぜながら質疑応答が実施された。その前半の模様を紹介する。
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「AI時代に人類学から教育を考える~ティム・インゴルドのコモニング」
■日時:2025年11月25日(火) 12時~12時55分
■講演:奥野 克巳氏
立教大学 異文化コミュニケーション学部 教授
■ファシリテーター:石戸 奈々子
超教育協会理事長
奥野氏は約30分の講演において、社会人類学者のティム・インゴルドが現代の教育で重要としている「コモニング」について話した。主な講演内容は以下のとおり。
教育とは「Becoming Human」ではなく「Human Becoming」である
私は人類学者として、東南アジアの赤道直下にあるボルネオ島で1990年代半ばからずっとフィールドワークをしています。最初は、焼畑稲作民・カリスのもとで2年間暮らし、2006年からは狩猟採集民・プナンのフィールドワークを約20年間、続けています。そうした経験をもとに民族誌エッセイとして新潮社から「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を出版しています。
このように人類学が専門ですが、本日は社会人類学者・ティム・インゴルドの教育論について話します。
ティム・インゴルドの教育論については、2017年に著書となる「ANTHROPOLOGY AND/AS EDUCATION」が出版され、その中で読み取ることができます。これは、ジョン・デューイの教育思想に関する講演「デューイ・レクチャー」をまとめたものですが、その第2版が別のタイトルで出され、2025年には日本語に翻訳されて「教育とは何か」というタイトルで出版されています。
また、2023年に出版されたインゴルドの著書「世代とは何か」の7章「教育について」の中でもインゴルドの教育についての考え方が示されています。私の著書「はじめての人類学」の5章でもインゴルドについて触れています。こうしたことを踏まえながら、インゴルドの教育論はどういうものなのか、私自身の理解を説明します。
インゴルドはデューイが提唱した「生の連続性」という概念を重視し、「学校という箱の中だけで行われているのが教育ではない」と主張します。
▲ スライド1・インゴルドは
教育が知識の伝達ではないと主張
インゴルドによると、デューイは2つの考えを持っていました。1つは「教育は伝達とコミュニケーション」だということ。この考えにインゴルドは批判的でした。教育が伝達だという考えは間違っているとし、インゴルドは知識や情報をAからBに渡す伝達は「学びを麻痺させる」としています。例えば、直角三角形の斜辺の平方は、ほかの二辺の平方の和に等しいというピタゴラスの定理がありますが、こうした知識は私たちの日々の具体的な経験や身体感覚からは切り離されています。つまり、そうした知識を単に伝達することについては、かなり厳しい言葉で「教育の死」であると述べています。
これが伝達に対する批判ですが、もうひとつのコミュニケーションというデューイの命題に関しては、単に情報のやり取りではなくて、「コミュニティ」や「コモン」と同根の言葉だと述べています。「異なる背景の人たちが、どうやって共に生きていくのか」に関わると説明し、それを踏まえて新しい言葉を作りました。それが「コモニング」です。
▲ スライド2・インゴルドが
教育で重要と考える「コモニング」とは
コモンという言葉を動詞形にした言葉です。インゴルドが使う「ing」をつけた言葉は、動名詞ではなくて動詞形、現在進行形だと考えてもらったほうが、インゴルドの主張を理解しやすくなると思います。コモニングというのは、日本語ではなかなか訳しにくい言葉なので、ここではそのままコモニングと使います。インゴルドは「コモニングとは、情報や知識を持ち寄って互いに意味や理解を作り上げていくこと」とし、その変容的、トランスフォーマティブな側面が重要だと述べています。
インゴルドは、伝達を批判してコモニングという言葉を生み出し、さらには「環境」も大事だと主張しています。その上で「教育というのは、何もない真空地帯ではなされない。私たちを取り巻く具体的な環境を通して行われ、維持されるものだ」と言っています。トランスフォーマティブなパワーが必要だということです。環境は変容的な力を持っていて、教師と学習者が共に変わっていく動的な場である、だから環境は大事なのだとインゴルドは強調するのです。
こういった形でインゴルドは議論を進めていくのですが、一方で、学校というのは公的な場としての意義や役割は大きいが、「教育を独占してはならない」とも述べています。学校だけが教育の場ではないということです。教育を学校内で完結させずに、家庭、地域、実践共同体などの非公的な学びの場と連携して、バランスを取るべきだという考えを示しているのです。
こうしたことを踏まえて、インゴルドの教育論を考えてみると、それを端的に示している言葉、考え方があります。教育とは「人間になっていく『Becoming Human』ではなく、人間として生成し続ける『Human Becoming』である」ということです。
▲ スライド3・教育とは
「Human Becoming」であるという
インゴルドの主張
人間になっていく、つまり責任ある大人が無知な子どもを一人前にするのが教育なのではない。大人も子どもも人間として生成し続けること=「Human Becoming」が教育だと言っているのです。これはコモニングに通じることですが、共に学び続けて変わり続けていくこと自体が教育の本質だということです。
到達目標を定めて進む教育ではなく憧れ=longingに向かう探究心を育む
インゴルドは、自身の教育論の中で重要なキーワードをいくつも示しています。まずは、「注意」です。さきほど、伝達は学びを麻痺させてしまう、生きた学びを止めてしまうというインゴルドの考えを説明しましたが、そこで重要になってくるのが注意、「Attention」です。これは受動的な聞き取りによる注意ではなく、世界に耳を澄まして応答し、探っていくという能動的に注意を払う姿勢です。この姿勢がとても大事だと言っています。
また、インゴルドはデューイの概念も継承しています。「Doing」、「Undergoing」、「Habit」などです。Doingとは「何かをなすこと」です。それからUndergoingは「被る」という考えに近く、受動的に受け止めることです。それを「Habit」、つまり習慣化していくことが大事だと言っています。
そして、習慣という行為の連続こそが経験の「線」を作る、これはインゴルド独自の「ラインズ思考」です。単なる繰り返しではない経験を未来に結びつけていく習慣、Habitがその線に形を与える、こういう言い方をしています。習慣とは効率性を重視したものではなく、習慣化されたやり方などに「沿って進む」こと、これをアロングという言葉で表現していますが、それが大切だと示しています。
その他にも「憧れ=longing」という言葉が、インゴルドの本にはよく出てきます。何かに憧れて向かい続ける探究心が大事だということです。
▲ スライド4・学びの根には
「憧れ」があるとインゴルドは言う
インゴルドは「目的論思考」をもって教育を実践していくのではなくて、憧れが大事なのだと言うのです。これは成果主義と違って知的な好奇心を育むことで、それが学びの根っこに確立されるということです。
インゴルドは目的論思考的に実践されるものを「意思の原理」と呼んでいます。教育は意思の原理を用いて行われるべきではないというのがインゴルドの考え方です。
意思の原理に対して、歩いていく行為そのものの中に住まうことを知り、生き生きとした生命力がみなぎった状況で新たな思考が誘発されること、これを「習慣の原理」と呼んでいます。この意思の原理と習慣の原理を提示しながら語っていくというのが、インゴルドの語り方です。
習慣の原理では、世界に対して能動的に注意を向け、教科書から情報や知識を吸収するのとは違って、予期せぬ世界の豊かさに触れることができると言っています。逆に言うと、意思によって進むのではなくて、習慣化して世界の偶然に出会うこと、そこにこそ価値があると主張しているのです。
次に彼は、Of-nessとWith-nessの違いを説明しています。
▲ スライド5・「Of-ness」と「With-ness」の違い
Of-nessは、書籍「教育とは何か」の中では、「の性」と訳されています。With-nessは「ともに性」です。Of-nessのOfは「何々について」、「何々の」ということです。つまり対象について学ぶということ。対象経験から切り離して客観的に対象化する態度がOf-nessです。
インゴルドは、教育は人類学だという言い方をしています。そうすると、人類学とは何かということを理解することが重要になってきます。人類学は異文化の他者についてデータを持ち帰ってきて研究するというスタンス、つまり「他者化」を長らく実践してきました。それが、Of-nessです。
しかし、インゴルドは人類学というのは本質的にはwith、人々「とともに」人間の生について探究する学問、つまりWith-nessであると述べています。
With-nessというのは他者「とともに」学び合うコモニングであって、対象に没入していきながら経験と理解を深めていくことです。教育においても、仲間とのWith-nessの関係を築いて学び続けることが大事だと強調しています。
経験や知恵を持ち寄り、共有しながら新しい意味を作るコモニングこそ重要
インゴルドは自身の教育論について、先ほど見た意思の原理、習慣の原理、それからOf-nessとWith-nessを重ね合わせながら議論を進めていくわけですが、最終的に彼はメジャーとマイナーという表現、あるいは強い教育と弱い教育というタームを持ち出しながら説明をしています。
▲ スライド6・インゴルドの言う
「強い教育」と「弱い教育」とは
強い教育は「長調」の教育です。弱い教育は「短調」の教育です。強い教育は確信と断定に満ちて教えられるもので、それは目的達成を重視して知識を持つ者と持たない者などの二項に分けて行う権威的なシステムであって、そこでは「理解」が目指されていると言っています。これは「世代とは何か」でも詳しく説明していましたが、スタンド、つまり立つという場を得るということが、アンダー・スタンド、つまり理解だという言い方をしています。
それに対するコモニングが位置づけられるのが弱い教育、短調の教育です。それは迷いの中で感覚を研ぎ澄まして、不安と不穏と問いかけの中に開かれるものであると言っています。教える側と教わる側が「ともに」学ぶコモニングが重視されて、幻想ではない本当の自由への道が開けてくるのだという見立てを出してきます。
弱い教育の中で行われるコモニングですが、これは知識が一方的に与えられるのではなく、参加する人たち、つまり教師と学習者、あるいは老いと若きも含め、参加する人たちが経験や知恵を持ち寄って、それらを共有しつつ一緒に新しい意味を作っていくプロセスです。知識は完成物ではなく、コモニングの結果として立ち現れるものです。こうしたプロセスがコモニングです。
インゴルドはこのコモニングを色々なイメージで表現していますが、私がしっくりきたのは、この長調と短調を説明する時の、木を切るという比喩です。「裂け目の差異化(Interstitial Differentiation)」という言葉を使って説明します。
長調的に木を切るとは一体どういうことなのかというと、設計図に基づいて外側から形を木に押し付けて木材を作り上げます。それに対して短調では、木が持っている固有の性質、木目などに注意を払って木と対話するように切っていきます。木目があれば木目に沿って切り出していくという形で木材を作るということ。これは対話によって木材を作るということです。
これを、『教育とは何か』では、物事と関わる過程で生成されていく「裂け目の差異化」と訳されていました。学びというのは教師と学習者の相互応答の内側に宿るものです。これがコモニングであり、短調的な教育だということになります。
教育はアンダースタンディングから「アンダーコモニング」へ
今、説明した長調の教育と「意思の原理」は繋がっている概念です。少し補って説明します。
意思の力によって進んでいくこと、これは目標を設定しますが、このことは長調に結びつきやすい考え方です。そこで大切になるのは「目標は何か」ということ。
果たして内側から出た目標か、外側から与えられた目標か。外側から与えられたものだとすれば、その意思の力というのは果たして自由なのかとインゴルドは問います。それに対してインゴルドは「習慣の原理は自由だ」と述べています。習慣というのは惰性や反復ではなく、目標に向かって進む意思の力に反して、予期せぬ道が開けてくるプロセス、それが習慣だと言っています。
それは、歩きながら道を探すことに似ています。歩いている中で道を探っていくことになりますが、インゴルドが言っているのは、ぶらぶら歩きです。ぶらぶら歩きをしながら問いを見つけ、そして知識を得る。こういうプロセスそのものが教育なのだということを、彼はしきりに強調します。
環境の変化や他人に応答しながら、しなやかに進路を変えていくことによって与えられる自由、これこそが自由なのです。外側から与えられた自由は本当の自由ではないということが、インゴルドが言いたいことです。ロベルト・エスポジトという政治哲学者がいますが、「意思の原理が及ばなくなったところから、習慣の自由が現れてくる」という言い方をしています。
また、インゴルドは意思の原理に適合するものがJoin upで、習慣の原理に合うものがJoin withだとも説明しています。他者との関わり方は、単に目的のために機械の部品を組み合わせるようにJoin upしていくものではない。多様な人々が関わり合いながら、ともに参加するJoin withで、これが短調的な教育だという言い方をしています。
そして、インゴルドは最近、アンダースタンディング(理解)に対して「アンダーコモニング」という言葉を使い始めています。違いを前提として集まってくるアンダーコモンズは旅仲間だとも言っています。つまり教師と学習者というのはアンダーコモンズの旅仲間で、互いに注意を払いながら気遣い合って、学び合っていくということ、これが教育だという考え方です。
そうすると勉強というのは一体何なのかということに関しても当然、インゴルドは考えています。インゴルドは独学を否定しています。勉強は決して孤独な営みではないというのです。徹頭徹尾コモニングで勉強していくことが正しいあり方だという見方を示しています。知識やスキルを個人所有するあり方を緩めて、シェアしてみんなのコモン、共有財産にして行われることこそが真の学びであるというのです。
古代ギリシアに立ち返って考えてみると、市民が集まって対話して、それぞれの知識を持ち寄って共同体に貢献する自由な活動の場として、スコレーというものが立ち上がりました。その理想は、インゴルドの言うコモニングそのものです。
教師は知識や学習進捗の「管理人」ではない コモニングで変わる教師の役割とは
現代のAIを活用した学習に関しては、どのように考えればよいのでしょうか。タブレットを配布してAIが個々の学習進度に合わせて最適学習メニューを提供してくれるというのは一見すると、効率的で個人の能力を最大限に引き出す素晴らしい方法かもしれないと思えます。しかし、本当にそうなのかとインゴルドは問いかけます。コモニングは、そういった現代の技術革新によって可能になった個別最適化を目指す勉強とはかなり異質なものだということが言えそうです。
知識が伝達されて消費される情報へと矮小化され、学びが経済的な効率性や生産性を上げるための手段になっている、こういうやり方には徹頭徹尾批判をし、反対していかなければいけないというのが、インゴルドの考えです。効率性や個別性が、学びの偶発性や他者との出会いから生まれる豊かさを失わせる、これがインゴルドの考え方です。
それでは、教師の役割はどういうものとしてインゴルドに理解されているのでしょうか。「知識を管理する管理人」ではなく、「学生の進捗を評価する管理人」でもありません。
▲ スライド8・教師は知識の管理人ではなく、
学習者の同行者である
教師は学習者たちが自ら問いを立てるのを横で支えて、時には一緒に悩んで考える触媒です。未知の世界をともに旅する同行者であって、あるいは寛大な案内人なのだというイメージを、インゴルドは教師に対して与えています。
教育における問題は何か、これまで実践されてきた教育を振り返ると、強い長調の教育は、教えられる側、つまり生徒たちが無知なものであると規定することで成り立っています。無知なものを作り出すのが強い教育であって、その上に成り立っているのがこれまでの教育です。これをインゴルドは批判しています。無知なものである子どもたち生徒たち、これを責任ある大人がしっかりと教育して知識を教え込まなければいけないとするのであれば、説明されないと理解できないという受動的な学習者を作り出してしまっている。実は子どもたちは本来もっと能動的に学ぶ力を持っているはずだという批判です。
最後にまとめですが、教師と生徒がともに考えて、新たな価値を紡ぎ出していくコモニングが、私たちを既存の権威や固定的な枠組みから解放し自由をもたらすことに繋がる、それが、インゴルドが最終的に言っていることだと思います。
人類学は一体何かということですが、私たちが持っている当たり前というものを問い直し、相対化する、そういった視点に貫かれている学問が人類学です。教育に対しても、インゴルドはその観点から取り組んでいるのだと思われます。
そして私自身はインゴルドの本を何冊か翻訳している関係で、インゴルドに共感するところが多々あって、インゴルドの教育論について本日発表させていただいた次第です。私は教育学について系統的に学んだことがありません。大学では半世紀以上教えていますが、学校教育そのものに関しては実践的なものも含めて、何がどう進んでいるのかが分かっていないという頼りない立場にいます。そのため私自身としては、インゴルドが言っている教育論はどれくらい教育学の専門家、さらには実践家に響くのか、あるいはどういう意味を持つのかということを知りたいと思っています。以上で私のプレゼンテーションを終了します。
>> 後半へ続く


