概要
超教育協会は2024年11月13日、武蔵野美術大学 学長の樺山 祐和氏を招いて、「武蔵野美術大学が考える生成AIとは何か」と題したオンラインシンポジウムを開催した。
シンポジウムの前半では、樺山氏は同大学が昨年に出した「生成AIについての学長メッセージ」や、芸術家としての生成AIとの向き合い方について講演し、後半では超教育協会理事長の石戸 奈々子をファシリテーターに、視聴者からの質問を織り交ぜながら質疑応答が実施された。その前半の模様を紹介する。
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「武蔵野美術大学が考える生成AIとは何か」
■日時:2024年11月13日(水) 12時~12時55分
■講演:樺山 祐和氏
武蔵野美術大学学長
■ファシリテーター:石戸 奈々子
超教育協会理事長
樺山氏は約40分の講演において、生成AIについての学長メッセージや、芸術家として生成AIにどう向き合っているかについて話した。主な講演内容は以下のとおり。
学長メッセージで生成AIをどう考えているか学生に伝える
今、生成AIは非常に話題になっており、色々な形での関心が高まっています。美術という領域が生成AIをどのように考えるのかについてお話しします。
私は生成AIの専門家ではありませんので、詳細な部分にはなかなか言及できないところがあります。学長をやっておりますが、一人の教育者でもあります。私の専門は油絵ですので、一人の作家であり表現者でもあります。そういった立場からの生成AIの考え方がありますが、初めは学長メッセージをどうして出したのかということを皆さんにお伝えして、それから教育者として、画家として生成AIをどのように考えて感じているのかということをお話したいと思います。
2023年の5月に、美術大学の中では初めて生成AIに対するメッセージを大学として出しました。さまざまな反応がありました。色々なメディア、新聞社から取材の依頼がありまして、大きな反響があったかと思っています。
学長メッセージを出す直接のきっかけは、学生たちが相当に生成AIに触れていたということがあります。生成AIでも画像が作れます。例えばピカソ風の作品にしてほしいという文章を打てば、それなりのものが出てきます。ということは、生成AIを使えばさまざまなイメージが表出されるということです。しかも、それがそれなりのクオリティで出てきます。当然ながら美術の世界、あるいはデザインの世界では誰が作ったかという著作権の問題はセンシティブに、厳格に対処しなくてはならないところです。そこで、学生たちに大学として生成AIをどう考えているかをいち早く伝えておく必要があるだろうという判断をして、学長、スタッフで集まりました。その中にはデザイン系の先生、ファイン(アート)系の先生のほか、民俗学や法学の先生もいました。その先生方と議論を重ねて6つの柱の学長メッセージを出しました。
まず、生成AIを自分の目で掴もうということです。使っている学生はいますが、まだ使っていない学生もたくさんいました。なので、まず触れてみるということです。生成AIは一つのツール、道具なので、どんな道具なのかということをまず自分自身の目で確かめてみようと言いました。ChatGPTは人工知能ですので、出てきたものは答えではなくひとつの意見として捉えなくてはいけないということを伝えたいと思いました。
そして、その当時の生成AIを取り巻く現状を確認しようと言いました。その当時、たかだか1年ちょっと前ですが、各国からChatGPT、生成AIは禁止するという表明が出たり、社会的に力のある方が賛成したり、と思ったらすぐ反対したりと、世の中が生成AIであたふたしていました。その頃は数週間単位で状況が変わっていました。その現状というのをまずちゃんと知っておかないといけないということを2番目に伝えました。ChatGPTや生成AIは私たちの知らないところですでに発動しています。ですから、本人がそれを拒絶しようが拒絶しまいが、大げさに言えば人類がもうその流れの中にいるということです。そういうことも、現状としてしっかり認識しようということです。
次に法整備です。法的な理解もきちんとしなくてはいけないと思います。その頃は今より法的な枠組み、整備が行われていない状況だったろうと思います。なので、そこを考えなくてはいけない。美術の世界では「誰が作ったのか」、「誰が描いたか」という著作権の問題があります。例えば通常授業をしていて、色々な作家に影響されるということはありますが、明らかにある作品をそのまま描いてしまっている場合、これはまずいぞと指摘します。下手でもよいから自分自身のオリジナリティが大事だという前提に立っていないと、表現は成立しません。といっても、美術は常に影響を受け続けています。他の影響を受けていない孤立した美術作品は一点もありません。全て何らかの影響があります。その上でオリジナリティがあるわけで、そういった考え方をしっかり持とうということを言いました。
生成AIの利用は奨励するが使ったことを明記するよう求める
次は、危険な側面についてです。個人情報や機密情報など公開されてはいけないものに関しては、絶対に入力してはいけないということを示しました。他人に悪意を持って公開しようと思ったらできますが、絶対にしてはいけません。あとはヘイトスピーチです。差別的な発言は一気に拡散していきますので、これもしてはいけません。インターネットというのは、意見が瞬時に拡散してしまうところに大きな怖さがあると思います。ヘイトスピーチも差別も、インターネットがなかった時は拡散することはなかったですし、拡散してしまうから憶測が憶測を呼んで何が本当なのか分からなくなることもあります。そういった危険な面をしっかり考えなくてはならないということを伝えました。
そして、次は具体的に大学の授業でどのようにChatGPTを使っていくかです。生成AIはもう私たちの生活の中に組み込まれています。ニュースでも、生成AIの言葉で報道しますという断りが入る場合もあります。そういうことが日常的になっているということを考えれば、生成AIは避けて通れない。だから大学での利用ということに関しては、積極的に使ってみようと奨励しました。これは、色々な考え方があります。先生によっては、そんなもの必要ないと考える人もいます。特にファイン(アート)系の先生に多いかもしれません。あるいは、積極的に使っていく、少なくとも知るということは必要だと考える先生ももちろんいます。その方が数としては多いです。そうなると使い方をどうするのかが問題になります。美術大学といってもレポートや論文の提出がありますが、そこでも生成AIは便利です。1,000字のレポートを200字にまとめてくれと言ったら、ChatGPTは美しく簡潔にまとめてくれます。ただ、失うものもあると思います。ですので、そういったレポート提出でChatGPTを使うことはあると思いますが、それをそのまま提出することは禁止しました。引用という形で使うのは許可し、ChatGPTを使ったことを論文やレポートに明記するように伝えました。使う際の約束です。そしてChatGPTだけで作った作品を、そのまま自分の作品として提出することは禁止しました。自分の作品なのかという線引きはなかなか難しいです。例えばChatGPTで作った画像に自分で手を入れて、加筆して、それをまたChatGPTに戻す。そうすると、それはChatGPTが作ったのか自分が作ったのか分からなくなります。それはネガティブな側面という考え方もありますが、だからこそ面白い表現ができる可能性もあります。ですが、やはり自分が作った作品に責任を持つということで、ChatGPTを使ってもよいけれど、使ったということをきちんと示すという約束を作りました。ただ、専門の先生が言うには、ChatGPTを使っているかどうかはほぼ分からないということです。なので、それについては紳士協定といいますか、学生たちを信じるしかないです。
生成AIで表層的な答えを手に入れただけでは本当の意味の学びにはならない
ここからは美術大学が考える「学び」についてお話します。ChatGPTや量子コンピュータというのは、効率を最優先に考えていると思います。無駄をしないということです。指示の文章を打てばそれなりの答えが出てくるわけです。ただ、美術は無駄をしないといけないのです。10あったら9を捨てないと駄目です。9を捨てないと本当のことを得られない世界です。ですので、無駄をするということ、あるいは失敗をすることがとても大事です。効率を優先すると、ChatGPTなどを使うことにはなりますが、そのベースにある考え方は、効率的にやることが一番大切というものです。それを認識した上で、効率的にやるべきところは効率的にやってもよいと思います。つまり、美術を学ぶということの本当の意味をきちんと理解した上で生成AIを使わないと、本当の意味での学びは起こらないということです。便利だからといって、それなりに表層的な答えを手に入れて、それをベースに展開するのでは、本当の意味での学びは起こらないということを伝えるのは大事だと思います。
実際に学生たちがどのようにChatGPTを使っているかについて、ひとつの例をお話します。ある学生は、学長メッセージを出す以前にChatGPTを使って、自分の好みの女性の顔を3点ほど作っていました。それはChatGPTで作ったものですから、もちろんこの世に存在しないですが、その学生はどうしてもその女性に会いたいと思いました。ではどうするかというと、ChatGPTの世界に自分が入っていくか、ChatGPTで作った人を具体的に存在させるベクトルで作品を作っていくしかありません。彼は後者を選びました。ChatGPTで作ったものは画像で、プリントアウトすると紙になるわけですが、それを壁に貼っているわけです。そして、そこに肉体を与える、つまり存在させるということをします。肉体を与えるとはどういうことかというと、単純に絵を描くということです。絵というのは非常に複雑といいますか、面白いもので、モノと生き物の中間みたいなものです。分かりづらいかもしれませんが、基本モノです。キャンバスはモノですし、絵具もモノです。ですが、単純にモノではない。生き物に近いものと言ったらよいでしょうか。描くものの生命というか、生きている力みたいなものが、絵具という物質を通じて作品化されているわけです。なので、どんなに素晴らしい絵でも、嫌いな人の絵は壁に掛けることができない。逆に、どんなに稚拙な絵でも好きな人の絵は壁に掛けられます。これはひとつの例ですが、絵や美術とはそういうものです。絵は壁に掛けて人を和ませるとか部屋を明るくするとか癒しを与えるとか、そういった側面もありますが、美術作品は人間の根源的な生命とは何かのようなところに直結するものでもあります。
その学生は、ChatGPTで作った女性たちを、絵を通して出現させたいということで、40センチ×30センチの作品を100点ほど作りました。具体的に身体を描いているとか手を描いているとか顔を描いているのではなくて、非常に抽象的なものです。絵具をガシガシ乗せて描いています。つまり彼は、ChatGPTで作った女性の顔をひとつのきっかけとして、絵画という表現で自分のイメージに近づけていくという表現をしたのです。単純にイメージをChatGPTで作って、それをプリントアウトして絵具に置き換えるというだけではないです。もちろんそういったやり方もありますし、それが一番ありがちな表現かもしれません。しかし、そういう表現ではなくて、「ChatGPTを使うベクトル」みたいなものがあるということです。だから、ChatGPTを使った色々なアプローチの仕方がきっとあるだろうなと思います。画像自体をChatGPTに放りこむこともできるので、例えば絵の画像そのものをもう一回ChatGPTに放り込んで何らかの指示を与えれば、自分が描いた絵をもとに自分の考えが反映されるようなイメージがChatGPTによって出てくることもあるだろうと思います。これはひとつの例です。
デザインの領域ではもっと効率的に使われているようです。例えばおもちゃのデザインをしようという時に、日本での南方と北方のおもちゃのあり方の違いや、おもちゃの形や色についての質問をChatGPTにして情報収集する、そういった使われ方がされているようです。情報収集をするためにChatGPTを使うということです。単純に、ChatGPTを使ってデザインをするということではなくて、自分のデザインをするための周辺情報の収集にChatGPTを使うということです。
昨年、学長声明を出した時、3年生のオリエンテーションでChatGPTについてどう思うか聞いたことがあります。ある先生からは生成AIが出現することによって多くの人たちが職を失うのではないかという意見が出ました。しかし学生からは、そんなことはないと思いますという意見が出ました。油絵学科の学生だったからということもあるかもしれませんが、どちらかというとChatGPTには否定的でした。私は使いませんと。ChatGPTは言語が前提になっています。言葉で指示を打ち込まないといけません。しかしファインアートを志向している人は、言葉が割と苦手な人です。言葉で伝えるよりも色や形やマチエール(絵肌)で伝えたいという人です。言語によるコミュニケーションよりもそういったものでもっと緻密に伝えたいと思っています。言葉はコミュニケーションの道具としては決定的に強い力を持っていますが、全部を言葉ですくい取れるわけではありません。絵画はもっと緻密に色々な感覚や感情を表出できるものです。こうした美術が持っているコミュニケーションのあり方を学生たちは理解しているなというのが、オリエンテーションではよく分かって、少しほっとしました。もっと多くの学生たちが、ChatGPTや生成AIを使っていこうと考えていると想像をしていたのですが、案外そうではなくて、割とみんな懐疑的だったのが意外でした。
AIが当たり前の世界に生まれた人から、正しい使い方が生まれてくる
次に今の現状についてお話します。教員向けの全学研修会の課題は、現在における生成AIについてでした。そこで理系のChatGPTの専門家を呼んでお話してもらいました。今後もChatGPTに関する考え方をしっかりと共有していかなくてはいけないと思っています。その時に、今後生成AIはどのようになっていくかという話もしました。面白かったのが、ChatGPTは自分でカスタマイズできる、MyChatGPTが出現するのではないかという話です。「私のChatGPT」になっていくのではないかという話が出ました。私なりの悩みや感覚を全部ChatGPTは分かってくれる。それがどのようなものになるか私もよく分からないですが、自分の脳がもうひとつ外に出てくるような、そしてそれが自分のスマートフォンに入ってきて、スマートフォンでカスタマイズされたChatGPTに色々なことを聞けるような時代が来るかもしれないという話をしました。
ネガティブな話もありました。例えばカーナビですが、昔はありませんでした。みんな地図を膝の上に抱えて見ながら運転していました。でも、地図を見ると例えば地名からここはどんなところだろうと色々なイマジネーションが膨らみます。地図の情報地図を見ていても外側を注視していないと自分が今どこにいるか分からなくなります。つまり人間の五感が全て発動している状態だと思います。しかし、ナビを使うと、ナビの言うことを聞いていれば目的地に着けるので、そういった感覚が鈍化していくことはあるだろうと思います。
私は若い頃ヨーロッパにいて、車でジブラルタル海峡を渡って、アトラス山脈を超えてサハラ砂漠を横断したことがあります。35年くらい前なので、もちろんカーナビはありませんでした。そうすると、自分が東西南北どの方向に進んでいるかが野生の勘として分かってきます。それは大事なことだと思いました。感覚を研ぎ澄ますことは、表現において最も大事なことです。自然のありようの中で、太陽がここにあるから今私は東に行っている、西に行っているというのが感覚として分かります。それは自分にとって大事なことだと思いました。
ただ、もうひとつ言えることは、カーナビが私たちの生活において当たり前の状態で生まれた人たちにとっては、カーナビがあることが当然なわけです。そうすると、カーナビがあることで生まれる新しい感覚もあるだろうなとも思います。単純に人間の感覚を退化させるということだけではなくて、もともとある人にとっては、我々にはない感覚が生まれる可能性はあります。インターネットが作られる前は、調べものをする時は図書館へ行っていました。それが、インターネットが出現して図書館へ行かなくてよくなりました。さらにスマートフォンが出てきて、情報がどんどん取りやすくなって、コロナの影響でオンライン会議システムが出現し、コミュニケーションの形が変わり、AIがやってきました。だからこれから生まれる人は、AIありきの世界で育ちます。AIというものに対する感覚は違ってくるだろうと思います。なので、これからAIの正しい使い方が生まれてくるのではないかと思います。私は完全にアナログの時代、携帯電話もインターネットもない時代に生まれて、色々な変化を体験しました。その変化が一段落した今、AIが出現した以降の人たちの可能性は大きいだろうと思います。だから、AIが人間のありようを変えていくものとして、単純にネガティブな方向だけでなく、よい意味で変わっていく可能性も十分に持っていると思います。
インターネットに関しても思いますが、基本インターネットは人と人を繋ぎます。一方では人を孤立化させていく側面もあると思います。AIについては、面白いのは対話型だということですね。AIと話ができます。すると、一見、人は孤独ではなくなります。しかし、本質的な意味では対話ではないです。それを対話だと思ってしまうと、本当の意味でのコミュニケーションとは何だろうということに思い至ります。
特に美術大学は、コミュニケーションとは何かを探究するところです。もちろん言語での探究もありますが、色や形を使った探究でもあります。本質的に人間と人間が対話するとは何なのかという問いかけでもあるので、そういう意味ではインターネットや生成AIもそうですが、コミュニケーションとは何かという問いにも直結しています。
>> 後半へ続く