教育の本質は、子どもを変えようとする大人の考え方を変えること
第109回オンラインシンポレポート・前半

活動報告|レポート

2023.1.27 Fri
教育の本質は、子どもを変えようとする大人の考え方を変えること</br>第109回オンラインシンポレポート・前半

概要

超教育協会は2022年12月14日、栄光学園数学科講師の井本 陽久氏をお迎えして「学びの本質〜多様性ある子どもたちへの学びの場」と題したオンラインシンポジウムを開催した。

 

シンポジウムの前半では、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも紹介され、本質的な思考力を発揮させる独創的な授業「いもいも教室」を主催する「イモニイ」こと井本先生に、現代社会を生きていくうえで本当に大切にしなければならない学びについて解説していただいた。後半は、超教育協会理事長の石戸 奈々子をファシリテーターに、参加者を交えての質疑応答が実施された。その前半の模様を紹介する。

 

>> 後半のレポートはこちら

 

「学びの本質〜多様性ある子どもたちへの学びの場」

■日時:2022年12月14日(水)12時~12時55分

■講演:井本 陽久氏

いもいも教室主宰/栄光学園数学科講師

■ファシリテーター:石戸 奈々子
超教育協会理事長

子どもがイキイキする授業を作る2つのこと

【井本氏】

母校の栄光学園で28年間、専任教師を務めたあと、現在は非常勤の4年目として週1回の授業を行っています。どんな授業をしているかですが、これは前後左右上下どの方向から見ても「田」の字に見える立体を考える問題を出したところです。

 

▲ スライド1・前後左右上下どの方向から見ても
「田」の字に見える立体を考える問題

 

問題を出すだけです。一人で考える子もいれば、グループで考える子、黒板で考える子、いろんなグループを飛び回って考える子もいます。当然、立ち歩きはOKです。むしろ「座っていろ」とは言いません。道具も一切用意していないため、自分たちで消しゴムを使ったり、ノートを切ったりしています。「わかった、わかった」など言う子がいますが、絶対にわかっていません。でも、いいんです。「わかったーっ!」という躍動に、学ぶ意味があるからです。

 

ボクたちがやっているのは、大きく分けて研究型の授業と、論理思考、つまり無意識を意識化するという哲学に近いものの2つです。『いもいも』もこのアプローチです。研究型の授業では、先ほどのどこから見ても「田」になる立体のような問題を出しますが、問題を解くというより、そこから生徒たちがいろいろな問いを設定します。「こういうのはどうだろう」「こんなことは考えられないかな」など、学びの幅がどんどん広がっていきます。広がりながらみんなで考えたことを共有していくと、学びに奥行きが出てきます。放っておくと、1問を1カ月ぐらいやっています。今年の1学期は3カ月で3問出しましたが、勝手に広がってすごいところまで行っています。

 

▲ スライド2・正四面体をイメージするため立体で作る

 

たとえば、「正四面体をいろいろな方向から見たとき、その平面図の輪郭として考えられるものをすべて選びなさい」という問題を出すと、立体をイメージできない子どもが多いので、立体を作ったりします。そこで、ああでもない、こうでもないとやるのです。紙で作ろうとしてもハサミがない子は、ペンをつないだり、フラットファイルの留め具を組み合わせて正四面体を作ります。やがて、シャープペンシルの芯で作るといった、むしろ難しい方法にチャレンジする子も出てきます。モップで作った子は、接着をせずにうまくバランスをとって作っていました。自分たちの体で作る子もいましたが、この場合は斜辺が「くの字」にならないようにするのが大変で、けっこう盛り上がっていました。

 

▲ スライド3・正四面体を自分たちの体で作る子どもたち

 

一言で言うと、イキイキしています。イキイキとした授業はどうやって作るのかとよく聞かれますが、とても簡単です。試行錯誤すれば、勝手に目がキラキラします。だから、安心して試行錯誤できる環境を作ることです。ボクが授業デザインするときは、彼らにどう試行錯誤を起こさせるかを考えます。では、試行錯誤はどうしたら起こせるか。これも簡単です。試行錯誤とは何かを考えればよい。試行錯誤はたった2つのことで回ります。その2つをデザインすれば、勝手に試行錯誤が起こります。

 

ひとつは「失敗する」ことです。よくわかっているのに、実行できないものです。とくに会社では、成果をあげなければいけないため失敗ができません。そうなると試行錯誤は起こりません。なぜなら、人はうまくいっている間は、その方法の見直しやアップデートは絶対にしないからです。真面目な人は、要求された以上のことができません。だから真面目な勉強には、ほぼ意味がありません。やらなくてもいいことまで考えるのは、うまくいかないときです。だから、授業のなかでうまくいかないことをデザインするのです。これがまず必要です。

 

もうひとつ決定的に大事なのは、「自分のやり方」で失敗することです。「こうすればうまくいく」と自分で考えたやり方で失敗するから、「えっ!」となって見つめ直すわけです。このとき初めて、無意識を意識化するという操作を行います。自分で考えたことだけど、そこにある無意識の根拠を見つめ直す。これは失敗するからやるのであって、うまくいっている間は絶対にしません。そのため哲学も信念も生まれません。

 

自分のやり方でやることが大事ですが、これが意外な盲点になっています。人に聞いたやり方で失敗しても、別の本を探したり別の人に聞くという流れになるだけで、自分の内側にあるものを見つめ直すことは絶対にしない。そのため本質には辿り着けません。

大人が教育だと思い込んでいることの重大な弊害

試行錯誤する、自分のやり方で失敗するというやり方が、なぜ学校や仕事の現場でうまくいかないのか。とくに子どもの場合、自分のやり方でいちばんイキイキするのは、ふざけ、いたずら、ずる、脱線をしているときです。学校の先生や上司といった指導する側の人には「こうすればうまくいく」という想定があるのですが、自分で自由に考えたやり方はその想定から外れるため、教える側には、それがふざけ、いたずら、ずる、脱線に見える。

 

しかしボクの研究型の授業が幅と奥行きのあるものにどんどん広がっていくきっかけは、ほぼ、ふざけ、いたずら、ずる、脱線です。とくに脱線です。問題が出されたとき、先生はその答えを導き出すことを求めますが、子どもは多様なため、その問題からヒントを得て、別のことを考えたくなったりします。そのひとりひとりの脱線を、よく見取っていくと、それが本質であることが多くあります。

 

先ほどの正四面体の輪郭の問題では、生徒は選択肢から答えを選ぶだけでなく、そこから、たとえば遠近感がある条件では実際にどう見えるか、正方形の板を真正面に置いたら本当に正方形に見えるのかなど、相当深いところまで考えます。それは脱線で、「余計なことより、言われたことをやれ」と言いがちですが、それで子どもたちが自分で躍動的な学びをするのを封じ込めてしまうのが現状です。

 

ただ教員も上司も、よかれと思ってやっています。善意で熱心にやっているのですが、その熱心さが逆に封じ込めになるという、悲しい状況です。誰も責められません。そこにズレが生じる理由は、自分がやってきた学びをベースにしているからです。そのため、そこから外れると不安になる。「今これをやっておかないとまずい」「学校へ行かないとここが抜けて後で困る」などと考えてしまいます。そんなことはないですが、そう捉えてしまいます。

 

学校の学び、つまりみなさんが学びと考えているもの、会社が教育と考えているものには、この先に想定される壁を乗り越えるために必要な道具を増やしておく、という考えが前提にあります。これからは英語が必要だ、プログラミングもだと、思いついたことをどんどん子どもたちに身につけさせて「手持ち」を増やしてやろうとします。この先に必要なるものは際限なく増えていくもので、満遍なく広く勉強することになります。子どもは膨大なものを学ばなければなりません。

 

そうすると、必要になるのがカリキュラムです。スモールステップを一歩ずつ積み上げて学んでいく方法ではカリキュラムが必要になります。カリキュラムは、各ステップの内容を理解して「できた」ことを前提に次へ進む構造になっています。そうなると、できるできないという優劣の評価をすることになります。そこでは、これは優、これは劣と最初から決められています。

 

子どもはひとりひとり違うし、感じ方も認識の仕方も違うのに、学校の中ではその子にしか持てない認識や感覚は「劣」になってしまう。そのため、学校では「できる」ようにしなければいけません。それをするのが「教える」です。みなさんは数学を、例題で解き方を学んで類題をやるという方法で学んできましたよね。そして、例題で学んだことを組み合わせて、ちょっと複雑な問題を解く。つまり、解き筋がある問題をやってきた。理解はできても初見の問題は解けないというのが、まさにその結果です。

 

教えると、生徒は自分のやり方をしないほうが得だと思うようになります。できることが評価されると、できようとします。自分のやり方、つまり試行錯誤では失敗するので、しないほうがいい。テストで、習った解き方ならできるとわかっているのに別の解き方を試す子はいません。

 

できるできないで評価するようになると、できるように先生が生徒に教えます。すると試行錯誤をしなくなる。今それが加速しています。昔とくらべて、インターネットやコンピューターでデータの管理や情報の共有が簡単になりました。そうすると、いいなと思った情報が先生方に共有されて、みんな同じやり方をするようになるんですね。

 

今は、勉強だけではなく、各教科で、関心、意欲、態度にも点数を付けて評価しています。昔は点数の良し悪しを評価されるだけで済んだのに、今は手をどれだけ挙げたか、どれだけ委員会活動に参加したかなど、生活のいたるところで評価されています。なので、子どもは人目をとても気にします。友だち関係も、我々が知っているものと違います。友だちだったらなんでも話せると思いますよね。でも子どもたちに聞いてみてください。近い関係の人ほど、何を言うかをとても気にしています。自分が言ったことで嫌われるかも知れないからです。その関係が辛いので、「陰キャ」、「陽キャ」などキャラを作っています。自分を作って無難な人間関係を作ろうとしているのです。そうした、人間関係を育まないで済む楽なインターネットに行ってしまう。子どもたちが自分で判断しないほうがいいと考え、許可を求めることが多くなったのは、まさに大人が教育だと思っているものの影響です。

不自由な環境で自由にさせる授業デザイン

学びとは何だろうとずっと考えてきました。今、学校でやっている勉強が本当に役に立っているとは、誰も思ってないはずです。「旅人算をやってよかったー」なんて人はいないと思います。だけど、やらずには安心できない。ボクは、学びとは何かを考えるときに、そこから目を背けずにやっていこうと考え、『いもいも』を立ち上げました。学校の学びは、将来のために今のうちに手持ちを増やしておこうというものですが、ボクはその逆です。手持ちは少なくていいから、「今ある手持ちでなんとかする」ことです。むしろ手持ちの少ないほうが面白い。工夫の余地がたくさんあるからです。できるできないなんて、どうでもいい。今ある手持ちで、自分を拠り所にしてなんとかするんです。

 

では、授業をどうデザインするか。それは、不自由な環境で自由にするということです。不自由とは、親切にしない、道具も与えない、懇切丁寧に「こうしたらできるよ」なんて言いません。不自由な環境に放り出すのです。そのかわり、自分でどうやるかは完全に自由です。「いくらでも時間はあるから、自分の考えでやってごらん」ということです。

 

学校の授業のデザインは逆です。教室も椅子も教材も、全部用意して環境を整えます。そのかわり、カリキュラムに沿って先生が教えたやり方でやれとなります。つまり不自由です。試行錯誤の余地がありません。それに対してボクの授業は、試行錯誤がいちばん生まれやすい環境です。めちゃくちゃ不便で不自由な環境で自由にさせることで、子どもたちは一気にイキイキします。

試行錯誤から勝手に対話的学びが広がり深まる

平日の昼間、素晴らしい自然の中で活動する『森の教室』をしています。高校の同級生の土屋 敦くんが担当していますが、彼は物の本質にしか興味がないというすごい人物です。最初から決めていたのが「ノースケジュール」。集合もしません。来た人から自由な環境に放り出されます。たとえば、あきる野市(東京都)の河原では、川で泳ぐ子、飛び込む子もいれば、石で水切りしたり、石を積んだりする子もいました。あとは焚き火です。焚き火は重要な要素として捉えています。

 

焚き火では、マッチも着火剤もなしです。自分たちでなんとかする。だから火を点けるまでにかなり時間がかかります。雨のあとなどは、お湯を沸かすのに3時間もかかったりします。でも彼らは、それを楽しみます。その間、携帯を見たりゲームをしたりする子はいません。

 

今は檜原村(東京都西多摩郡)のいちばん奥の集落に住んで、ここに『森の教室 檜原村』というフリースクールを開校しています。この河原を独占状態にして、子どもたちを放り出すんです。何もないけれど自由です。何もないけれど、材料だけはいろいろあります。しかも、どれだけ使ってもいい。そこでたとえば、ある子どもが斜面を滑ろうと言うと何人かがジョイントします。最初は持ってきたビニール袋で滑っていますが、やがて「ソリがあったらいいな」となります。しかし我々は何も与えません。道具を与えず、不自由にしておきます。すると彼らは山の中から鉄板やダンボールなどの廃棄物を探してきて、それで滑ったり、あるいは、倒木にコケが生えた場所が滑りやすいとか、彼らなりに、どんどん広げていきます。

 

▲ スライド4・コケが生えた倒木で滑る子ども

 

農家のお子さんが遊びに来て、葉っぱに穴を開けるとメガネになるよと教えると、お兄ちゃんはもっときれいな葉っぱでやり出して、もうメガネなど関係なく葉っぱを顔に付けて楽しむ子もいる。隠れんぼでは、ちょっと枯葉に埋もれると体が見えなくなります。ちょうど葉っぱの色の布を持っていたスタッフがいて、子どもが「その布を貸して」と言ってきたのですが、当然「ノー」です。そうしたら、その子は、コケをかぶり同化しました。これに留まらないのです。さらにコケでコートを作りました。それを見ていたちっちゃい子は、帽子を作りました。すると年長者はもうちょっとお洒落な帽子を作り、今度はマフラー付きの帽子など、そうやってどんどん奥行きが出てきます。このように子どもが自分のやり方を試行錯誤していると、そこに人が集まって対話的な学びが自然に起こります。そうなると勝手に学びに幅が出て、奥行きが出ます。

 

▲ スライド5・コケをかぶり倒木に同化する子ども

 

倒木を見つけた子がベンチを作るといって運んできましたが、ここにまたコケが登場します。いろいろなところからコケを集めてきて、ふかふかのベンチにしていました。コップが置ける場所を作る子もいました。地面から出ていた木の根っこを切ろうとした子は、ナイフがないので石を割って尖らせて使っていました。それで切れたので「やったー!」と嬉しくなってタスキにしたのですが、そのタスキに葉っぱを付けて冠を作りました。

 

▲ スライド6・木の根っこをタスキに
葉っぱを付けて冠を作る子ども

 

雨が降ったら自分たちで東屋を作りますが、だったら事前に小屋を建てておこうとなりました。しかし小屋の中では立てないため、地面を掘った上に建てようとなり、穴を掘り始めましたが、そのうち彼らは、自分たちで不自由にしていきました。これから作る小屋は、縄文時代になかったものは使わないとルールを決めました。そうして道具を作って掘り始めましたが、柄が折れてしまう。そこで太い枝を切り出し始めました。小さい鋭利な石を挟んで、上から大きな石で叩き、3日かけて切りました。子どもたちは、そういうプロセスを嫌がらない。

 

▲ スライド7・太い枝を小さな鋭利な石を挟み、
上から大きな石で叩き3日かけて切った

 

つまり、不自由な環境で自由にさせると、彼らは勝手に試行錯誤して、彼らが集まることで対話的な学びが起こります。対話的な学びは、いちいち考えなくても子どもたちは勝手にします。つまり、人の視点をもらうことで、勝手に学びが広がり深まるということです。

子どもたちは答えに一切興味がない

我々は別に、火打ち石が使えるようにしようとは考えていません。火打ち石で火が点けられないと将来困るとは、思っていないからです。だから、できるできないなんてまったく見ていません。子どもたちも、まったく意識していません。むしろ我々が見ているのは「プロセス」です。今ある手持ちでなんとかしようとする様子を、ちゃんと見てあげるということです。ボクの数学の授業では、答えを出さないことがクローズアップされますが、それは当然のことです。生徒が答えを求めないからです。問題の答えは、子どもたちは一切興味がないです。

 

子どもたちは、かならず本質的な方向に興味を示します。プロセスをちゃんと面白がります。だから3時間かけてお湯を沸かすことに大満足できます。つまり、今の手持ちでなんとかするところを、我々がキッチリ見る。できるできないの評価ではなく、認めるということです。

 

これは何かと言えば、生きることそのものです。「生きる」ことには、ありのままの自分でいることが前提にあります。人と同じでなくていい。まさに自分が自分であることが周囲を刺激して、全体の学びが加速する状況になります。

 

基礎はどうするのかとよく聞かれますが、学びの土台は、学ぼうとした瞬間には身につきません。たとえば、物理現象を学ぶとき、重力は当たり前のものとして考えます。重力を知らない人がいくら重力を習っても、とても難しい。ボクの教え子で宇宙関係の仕事している超優秀な人がいますが、彼は宇宙で「良い失敗」の仕方をする研究をしています。宇宙は地球の環境とまったく違います。我々が小さいときから五感で自然に体得してきた感覚がまったく使えません。だから、頭の良い人にしかできません。学びの土台とは、赤ちゃんがお母さんのところへ行こうともがいて、やっとハイハイができたとき、摩擦や重力や剛体という考え方の大元を体得する、というところにあります。学びの土台は、学ぼうとせずして学ぶことです。基礎が大事だからとドリルなどを使って反復でやらせようとしても、そんなものはまったく身につきません。

 

学ぼうとせずして学ぶことは、彼らが彼らであり続けることで自然に獲得していきます。ありのままの自分の延長上に学びがあるということです。学びをさせようとしなくても、彼らは必要なものを勝手に学びます。その必要なものは、ひとりひとり違います。なぜなら人生が違うからです。ある子は焚き火をしながら物理現象を学ぶかもしれない。ある子は協調性を学ぶかもしれない。これはまさに人生の縁です。その縁の違いによって、その延長線上にある学びは変わってきます。でも、必要なものは自分で身につけ、勝手に進んでいきます。

教育の目的を大人の側に置く

我々は、教育の目的は子ども側に置くのが当たり前だと考えています。しかし、こういう子にしよう、こう変えよう、というのはうまくいきません。子どもはひとりひとり違うため、同じ方向で同じように変えようとしても無理です。それはみなさんも、子育てで感じていると思います。でも止められない。それは心のなかに不安があるからです。だから子どもの側に目的を置くのは、そもそも理に適っていないのです。

 

そこで我々は、目的を大人の側に置いています。どの子に対しても、その子が持っているそのままのものを「愛おしいなぁ」と受け入れるのです。受け入れられるように、我々が変わるのです。だから、教育の目的を我々の側に置きます。

 

子育ても、子どもを変えることを目的にした瞬間に、苦しい子育てになり、うまくいかず、罪悪感にまみれます。子どもを変えることは誰にもできませんが、子育てを通して、みなさん自身が変わっているはずです。自由な、自分を受け入れる方向に変わっています。

 

つまり教育とは、子どもを変えることではなく、子どもを変えようとする大人の心を変えることだと思っています。

 

>> 後半へ続く

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