海外では条件を満たせば大学の正規の単位として認める動きも
101回オンラインシンポレポート・後半

活動報告|レポート

2022.11.11 Fri
海外では条件を満たせば大学の正規の単位として認める動きも</br>101回オンラインシンポレポート・後半

概要

超教育協会は2022922日、京都大学 高等教育研究開発推進センター長・教授の飯吉 透氏を招いて「高等教育の未来~「黒船」としてのマイクロクレデンシャルは何をもたらすか?~」と題したオンラインシンポジウムを開催した。

 

シンポジウムの前半では飯吉氏が、教育におけるテクノロジーの系譜と、マイクロクレデンシャルによって高等教育のあり方が変わる可能性、人々の学びへの向き合い方の変化について説明した。後半は超教育協会理事長の石戸 奈々子をファシリテーターに、参加者を交えての質疑応答が実施された。その後半の模様を紹介する。

 

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「高等教育の未来~「黒船」としてのマイクロクレデンシャルは何をもたらすか?~」

■日時:2022年9月22日(水)12時~12時55分

■講演:飯吉 透氏
京都大学 高等教育研究開発推進センター長・教授

■ファシリテーター:石戸 奈々子
超教育協会理事長

 

▲ 写真・ファシリテーターを務めた
超教育協会理事長の石戸 奈々子

 

シンポジウムの後半では、ファシリテーターの超教育協会理事長の石戸 奈々子が、参加者からの質問も織り交ぜながら質疑応答を実施した。

マイクロクレデンシャルで大学の役割はどう変わるのか参加者の関心が集まる

石戸:「ありがとうございます。マイクロクレデンシャルが進んだ先には、大学の役割とは何か、大学の存在意義とは何か、という話になってきますが、私自身コロナ禍でそれについて考えさせられました。そのことも後ほどご意見を伺いたいのですが、まずは最初に届いた質問です。『京都大学オープンコースウェアの閉鎖について』です。やはり皆さん気になっていると思います。『差し支えない範囲で閉鎖の理由や背景を教えていただけないでしょうか。また現在、公開されているコンテンツは今後どうなるのでしょうか』というものです。かなり多くの方がニュースを見て衝撃を受けたのではないかと思います。可能な範囲で教えていただけますでしょうか」

 

飯吉氏:「これまでメディアの取材などにも、できるだけ思うところを話してきて、言い尽くしたと思っています。京都大学でオープンコースウェアやMOOCを今後どうするかについての方針が揺れている状況については、メディアなどで報道されている通りです。複雑な要因があり、簡単にはまとめられません。

 

これまでは、出せるものをどんどん出して社会貢献していくという、オープンエデュケーションの理念がありました。2001年にMITがオープンコースウェアを始めた時、年間400万~500万円の学費が必要な大学の講義ビデオや教材を無料で提供するというのは素晴らしいということで、日本や世界中の大学で普及してきたわけです。

 

自分が所属している大学ということを超えて、長らくオープンエデュケーションに関わってきた立場から俯瞰してきた人間として言わせていただくと、グローバルな観点からも経済的な厳しい戦いがあります。ブロック経済化や保護主義の台頭などもあり、先ほどの『Oの時代』から堅持されてきた価値観や理念を疑問視する風潮もみられます。

 

アメリカではそういった疑問がトランプ政権時代に大きく取り沙汰された訳ですが、このような疑問が日本だけでなく、世界の高等教育に覆いかぶさってきているという見方もできなくはないと思います。京都大学で起きていることがその一端なのかどうかは、私にも分かりません。とは言え、国立大学には税金が投入されていますし、社会還元できるかどうかも問われます。ビジネスモデルを作って稼げる大学も大事ですが、教育だけで稼ぐ必要はないですし、大学教育にもやはり公教育的な側面はあります。

 

昔から『オープンエデュケーションは、ビジネスモデルを作れるのか』と言われていますが、私の答えはこれまで一貫して、『オープンエデュケーションの中だけで完結するビジネスモデルはできない』ということです。オープンかつ無料(もしくは安価)に教育を提供するということは、大学側の持ち出しが多くなるのですが、その分はオープンエデュケーション以外で稼ぐという考え方も必要になるでしょう。

 

大学がどこまで懐深く、寛容に対応できるか。無料でさまざまな分野の授業を提供することを通じて、その研究分野の「ファン」となる若い人やリカレントの学び手を増やすという効果は非常に大きい。それを考えれば、お金を払って受けられる本来の講義だけに特化して大学を運営していくべきだという考え方は、視野が狭いと思います。

 

京都大学のオープンコースウェアの今後については、タスクフォースが設けられ検討されることになりました。これまでのコンテンツには、当面アクセスできます。ただし今後の新規コンテンツは、領域や形式がかなり限定される可能性もありそうです。このような方向性が、オープンコースウェア本来の理念に沿うことになるのかは分かりません。私個人としては、もし沿わなくなるのであれば『オープンコースウェア』という名称を使うべきではないと思いますが、無料か有料かを問わず、講義や教材の発信は何らかの形でしていくことになると思います。

 

MOOCに関しても同じで、社会貢献的な理念だけでよいのかについての検討は必要だとしても、突然止めるのはいかがなものかと個人的に思います。大学施行部としては、今一つ立ち止まって考え直したいようで、経営的な判断としても大きいです」

 

石戸:「突っ込んでお聞きしたいことはもっとありますが、話せないこともあるかと思いますので、次の質問に行きたいと思います。『世界のトップレベルの大学でマイクロクレデンシャルが導入されている中、日本の大学が大きく遅れている一番の理由は何か』という質問です。もうひとつは『これから大学教育のDX化の一つとしても、マイクロクレデンシャルが普及し定着していくにあたり、何が一番障壁となるのか』というものです。共通する部分もあると思いますので、2つまとめてお伺いできればと思います」

 

飯吉氏:「日本が海外と比べて遅れている理由は、人材採用のときに大学のブランドばかりが重視され、大学で何を学んだかがあまり見られてこなかったことです。ただ日本でも最近は中途採用が増えてきて、職歴は見られるようになってきました。しかし、学校で学んだことまではなかなか視点が降りてこない。日本は終身雇用型で、「一度組織に入ってしまえば勝ち」というところがありましたが、もうそのような状況ではなくなってきています。残念なことですが、これからは雇用がより不安定になっていくと思います。自動車産業はじめ、王道だと思われていた業種もどうなるか分からないような状況で、何を知っていて何ができるのか積極的に示していけるマイクロクレデンシャルの社会的な役割は、特に高等教育においては、必然的により重要になっていかざるを得ないと思います。日本の大学が気を付けなければいけないのは、ブランド効果は今後どんどん落ちていくということです。それを補っていくためにも、教育の実質化をより一層進めなければなりません」

 

石戸:「その点でいうと、こんな質問もきています。『取得したクレデンシャルの価値を企業側が認めない限りは、社会的な普及はなかなか難しいのではないか。それに対するご意見を伺いたい』というものです。飯吉先生としては、そこは必然的に広がっていくと考えていらっしゃるということですね」

 

飯吉氏:「そうですね。これは大学入試のシステムからその傾向があって、ブラックボックス化した大学では、『偏差値が高い人を取れば、ちゃんと育てなくてもその中からそれなりに(良い人材が)出ていくだろう』という見方があったわけです。ただ最近では、大学の学位に見合う知識が身に付いているのか、ちゃんと検証するべきという方向になってきています。ディプロマポリシーというものが作られているのも、そのためです。

 

マイクロクレデンシャルでは、小さい単位ではありますが、このような学修成果が見える化されているため、今後普及していくと思います。雇用側には、この人が何を学んできたのか、学びの成果を証明しているものがあるかをちゃんと見るような制度や文化が必要です。世界的に人材が循環していく中で、国際通用性がなければ雇用も進みません。日本人の労働人口が減っていく中でも、海外の人たちに外国にいながら日本企業で働いてもらうことで、(直接的・間接的に)日本に税金を納める人を増やすことができます。ぜひ企業の方々も率先して(マイクロクレデンシャルへの理解と活用を)進めていただきたいと思います」

 

石戸:「最後の質問です。『いわゆる従来の一般的な学位課程よりも、このマイクロクレデンシャルが主流になっていくことも考えられるでしょうか』というものです。先生の答えはイエスなのではないかと予想しますが、仮に逆転劇が起こるとすると、先生はどのぐらいのタイムスパンを考えていらっしゃるでしょうか。もう一つそれに付随して、『そうなってくると大学はこれからどうあるべきなのか』、その役割についてご意見を伺えますか」

 

飯吉氏:10年程前、MOOCが登場する前に出版された『ウェブで学ぶ』(著 梅田望夫/飯吉透)という本の中で、実はそのヒントになるような話を随分としました。一つは、『学校を強制力としてみる』ということです。オンラインを使うと時間と空間が解き放たれて、好きな時に好きなところで好きなことを好きな人と学ぶことが可能ですが、それで皆がよりよく熱心に学ぶようになるかというと、それは分かりません。日本で広がったオープンエデュケーション的なものは、皮肉なことに受験勉強のために無料もしくは安価で講義や教材を使えるスタディサプリなどでした。受験向けの内容だったため、多様性という観点からは、非常に限定的だと言わざるを得ません。しかし、ニーズはありました。オープンエデュケーションでは、使えるものは何でも使って勉強することが可能ですが、日本は大学入試だけにフォーカスしていることが、大きな問題だと思います。

 

大学の大きな役割の一つは、社会に人を送り出すことです。例えば学問の世界に人を送り出すときに入試対策のような教育しかできないと、育てられた人は学問的にも限定的なことしかできなくなると思います。これからの大学は、人々がオンラインと対面で時間や空間を共有し、プロジェクトを横断的に進めながら学ぶことができる貴重な機会を提供する場になると思います。ミネルバ大学なども、空間的には寮に閉じ込めていますが、実際の授業はオンラインで行い世界中からオンラインで参加する形です。

 

大学にとっては、今後この辺りをどれだけ懐深く、ベストミックスによって多様な教育を提供できるかが鍵となります。選抜がある大学もない大学も、人為的に学びのコミュニティを作りそこに人々を閉じ込められるのであれば、それをどう生かしていくかが大事だと思います。企業が提供できる教育もありますし、大学もマイクロクレデンシャル的に教育プログラムを切り売りしていくことも考えられるでしょう。20年後には、大学の形はだいぶ変わっていると思います」

 

最後は、石戸の「大学の役割を真剣に考えなければならないフェーズだと思います。本日は大学関係者にとって示唆に富んだ講演だったと思います」との言葉でシンポジウムは幕を閉じた。

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